親方と夏休み

親方が8月、夏休みをとることになった。

 

なにせ、側から見ていて泳ぐのを止めると死ぬマグロのような動きをしていた。もともと生存戦略として「次の一手」を常に考え続ける人だと思うのだが、特に「やってこ」という概念と出会ってしまった今年に入ってからは猛烈に見えた。ただ、ここで思い切って休みの一手を選ぶ客観性は編集者なのだなと思う。

 

 

親方というのは柿次郎さんのことだが、一緒に働き始めてからしばらくして「師匠」ではなく「親方」と呼ぶようになった。実際に呼ぶ際は「柿次郎さん」か「柿さん」なので、あくまで心の中で、である。

 

「師匠」と「親方」という2語に自分のなかで線引きはあって、師匠に対しては教えを乞う姿勢が強く、親方に対する弟子のほうが、仕事面で一人前の働きをしなければならない。あくまで自立した個として向き合うかどうか。これはいち編集者として誘ってもらった以上、甘えないための線引きと言ってもいい。

 

 

とはいえ、タテの関係には変わりがない。「親方」は「師匠」に比べるとややナナメ寄りではあるが、やっぱりタテはタテだ。

 

そして実は、この「タテの人」への憧れを小さい頃から持っていた。きっかけは、おそらく作家の椎名誠さんだ。

 

「最近、若者が自分を慕ってやってくる。尊敬する年上の人間を求めて来ているのはわかるが、自分はそんな存在ではない。自分のサラリーマン時代を振り返っても、同じような憧れはあったが、結局、尊敬に足るタテの人には出会わなかった」

 

こんな風な内容を、とあるエッセイで椎名さんが書いていた。あやしい探検隊や東ケト会などで「シーナ軍団」を率いる、いかにも「頼れるアニキ」の椎名さんがそんな風に書いていることが、10代前半の一人っ子で部活も会社も何も知らない自分には不思議に思われた。

 

しかし時は経ち、2年前までの自分も気づけばそうなっていた。前職の上司は師匠でも親方でもなく、あくまで「上司」だった。同じサラリーマンでも関係構築のうまい人なら師匠なり親方を作れるのだろう。それが自分にはできなかった。ぼんやりとした憧れは消えず、諦めが勝り始めていた。

 

だが、タテの人間が27歳にして突然、降ってきた。それが2年前、柿次郎さんとの出会いだった。

 

ここまで人生に干渉してくる人はいなかった。

なにせ名前を変えられ本名で呼ぶのは妻くらいになり、深夜2時過ぎの居酒屋で人間性のところまで説教されたことも数え切れない。24時を過ぎたあたりから目つきが胡乱に変わり、「詰め次郎」になった現場に居合わせた人に心配されることもあったが、どういうわけか、これが不思議と袂を別ちたいとはならなかった。

 

その理由をよく考えるのだが、ひとつは「そこまで人生に干渉してくる」からこそだと思う。そう、 やはりつまるところは「やりすぎ」な親方への興味なのだ。

 

 

柿次郎さんの奥底には常にある炎が燃えていて、それを内燃機関に走り続けている。いつか炎に燃やし尽くされて死んでもいい、と言わんばかりに。

自分の奥底にある炎はどうも色が違う。炎ですらないのかもしれない。そのことには柿次郎さんとあって気づかされた。だからこそ走り続ける姿に興味を覚えるし、その炎の色をもっと見てみたいと思う。

 

 

ちなみに酔った柿次郎さんからは「袂を分かちたい」と何度も言われている。「早く袂を分かたせてくれ〜〜〜〜」という口調こそ冗談めいていたが、あの目は本気の色をしていた。

(そういえば、最近言われなくなったのが気がかりだ)

 

ずっと一緒にいることはないのかもしれないが、別れるとしたら仕事において対等に袂を分かちたいと思っている。そこは「親方」と呼び続けることと同じ意地のようなものがある。

 

ただ、対等に並んだうえできっちり袂を分かつためには、あまりやりすぎられては困るのだ。 少しくらいは気を抜いてくれないと、いつまでたっても追いつけない。

 

だからこの夏休みはチャンスだといえる。とはいえ、おそらく親方はやってしまうと思うから、あえて言いたい。柿次郎さん、やりすぎないで。